マリブのブログ

ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ

映画『はちどり』の私的な感想―愛のない世界で叫ぶ少女―(ネタバレあり)

House of Hummingbird01

벌새/House of Hummingbird/2020(韓国)/138分
監督・脚本:キム・ボラ
主演:パク・ジフ/キム・セビョク、イ・スンヨン、チョン・インギ、パク・スヨン

 言葉に出来ない想い

言葉に出来ない想いを表現するのが映画だ。

その上で、この作品ほど、文字で伝えるのが困難な映画もめったにない。

 

新進気鋭の女流監督キム・ボラが、その少女期を自叙伝の様に綴ったこの映画は、2018年の釜山国際映画祭を皮切りに、国内外の映画祭で50を超える賞を受賞。

彼女は、ニューヨーク・コロンビア大学院の卒業制作として、この映画の主人公ウニの幼年期を『リコーダーのテスト』という短編映画で撮影したそうだが、その自主映画の評価は勿論の事、続編として制作された今回の『はちどり』は、韓国で最も権威のある青龍映画賞でアカデミー賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』をもおさえ、最優秀脚本賞に迄手が届くという快挙を成し遂げた。

 

だけど、上述したポン・ジュノ作品や、カンヌを席巻した是枝監督の『万引き家族』等と比べると、この映画の捉える視点は至って狭い


そればかりか、14歳の少女の目線で巻き起こる様々な社会的大海嘯はあまりにもちっぽけで、それが彼女の家族や友人、或いは恋人との甘酸っぱい思い出にどう関わっているのか、その手触りさえよくわからないまま。。

 

それでも自粛明けの映画館では、連日満員状態。。

更に、昨年公開された本国韓国では、観客動員数が1万人でヒットといわれるインディペンデント映画市場で、正に異例中の異例とも言える14万人を超える大ヒット映画になったという。

 

奇しくも、コロナ禍の影響で個人の尊厳が問われる今、このあまりにも静謐でパーソナルな少女の物語を、観客はどんな思いで受け止めてるんだろう?

 

 

 

あらすじ

1994年、空前の経済成長を迎えていた韓国、ソウル。
14歳のウニは、両親、姉、兄と集合団地に暮らしていた。
学校に馴染めず、別の学校に通う親友と遊んだり、男子学生や後輩女子とデートをしたりして過ごす日々。
両親は小さな餅屋を切り盛りし、子供達の心の動きと向き合う余裕がない。父は長男である兄に期待を寄せていたが、兄は親の目を盗んでウニに暴力を振るっていた。
ウニは、自分に無関心な大人に囲まれ、孤独な思いを抱えていた。
ある日、ウニが通う漢文塾に女性教師のヨンジがやってくる。
大学を休学中のヨンジは、どこか不思議な雰囲気を漂わせていた。
自分の話に耳を傾けてくれるヨンジに、ウニは心を開いていく。
ヨンジは、入院中のウニを見舞いに訪れ、「誰かに殴られたら黙っていてはダメ」と静かに励ます。
ある朝、ソンス大橋崩落の知らせが入る。それは、いつも姉が乗るバスが橋を通過する時間帯だった。
ほどなくして、ウニのもとにヨンジから一通の手紙と小包が届く。
Filmarksより抜粋

House of Hummingbird02

 ホラー映画以上の恐怖(※以下、ネタバレあり)

冒頭から、鍵の開かないドアノブを必死で揺さぶる少女の姿は、それだけで切羽の詰まった悲壮感を十分に醸し出す。

更に会話のない家族や、気まぐれで臆病なウニの彼氏と、劇中の登場人物は皆一様に内向的。

いや、内向的というよりむしろ、他人を気遣える余裕が全くないのだ。

 

折しも、その時代背景は日本の高度成長期と同じ変革期。

漢江の奇跡と呼ばれる韓国人のソウルワードだったフレーズを胸に、かの国が先進国の仲間入りを果たす過程において、最もパワフルに輝いていた時代だ。

 

だけど、日本の戦時下の標語「欲しがりません勝つまでは」宜しく、学校内では「カラオケの代わりにソウル大学へ行け」と謳う教師達の言葉はやっぱりピンボケで、思春期のウニの胸には全く響かない。

それどころか、当時の朝鮮半島情勢を大きく左右する、初代北朝鮮最高主席金日成の死去のニュースさえ、どこか朧げに、彼女の脳裏を通り過ぎていくだけ。。

 

だけど、ウニは漠然とこの時代を生き抜けたわけじゃない。

 

貧困層に取り残されたままの彼女の家庭においては、学歴至上主義に直走る父親と自尊心が完全に欠如した母親との間で、ウニの兄だけは過大なプレッシャーを抱える。

その目に見えぬ不安に怯えるだけの姉は懊悩を続け、やがて爆発する兄のストレスの矛先は、自然と末娘のウニに向けられてゆき・・

 

創作の映画というより、正にドキュメントのようなこのレタッチが、観客にホラー映画以上のしっとりとした恐怖を与えてくるのだけど、結局、そうして社会と乖離していく少女に全くの救いがないのかと言えば、そうでもない。

孤独な少年期を過ごしてきた自分から見れば、ウニは羨ましい程親友にも恵まれ、彼女を慕ってくる後輩女子までいる。

更に、学校では居場所のない彼女にも、漢文塾で出逢う女子大生の講師ヨンジは優しく手を差し伸べ、シビアな社会を渡り歩く術を授けてくれる。

しかしその全てが、加速度的に進化を遂げる世の中の代償として、無残に葬り去られる社会の生贄だとすると・・・ 

 

 

House of Hummingbird03

 他人に無関心な世界

この映画を見終えた後に、自分には3つの疑問が残った。

まず初めに頭を悩ませられたのは、ウニの親友である少女と彼女を慕う後輩女子が、好意を抱いているはずのウニに対しあまりに淡白過ぎる

 

ステレオタイプに孤独な少女の日常から奇をてらう意図があるのだとすれば、彼女達との友情や他愛もない様子を、もう少し掘り下げてみても良さそうなものだし、138分にも及ぶ尺の中で、この繊細な心の機微に触れられる余裕がないとは到底思えない。

その二人がウニから離れていく過程もあまりに唐突で、後輩女子に至っては、彼女は何の前触れもなく、たった一言の台詞でウニとの関係が途切れてしまう。。

 

二つ目に疑問を感じたのは、ウニの視線と、彼女を取り巻く周りの視線とのすれ違い

自分に全く持って無関心な大人達に取り囲まれた世界で、ナイーヴな少女のはずの彼女の目線は、決して泳ぐ事がない。

しかも、いつもどこか一点を見据える様な彼女のそれは、思い詰めた様子というより、何故か曖昧な宙をじっくりと見詰めている。

それに絡む大人達と言えば、意外にもしっかりとウニに語り掛けるけど、彼らはウニの方を向いてはいたとしても、その心を完全にスルーする。

この妙味が、映画の切り口をより鋭利に研ぎ澄ましている証拠ではあるけど、演出としてはちょっとあべこべに、殆どと言っていい程、ウニが悩む表情を浮かべない。

そればかりか、保身から咄嗟にウニを裏切る親友にさえも、彼女は時折“自分勝手”である事を指摘され、強い憤りを受ける。

 

つまりこの映画は、キャッチコピー通りの少女の目線から見た陰鬱な社会の話でも、その不憫な少女が巻き込まれたカタストロフィでさえもなく、主人公のウニそのものでさえもすっかり取り込まれている愛のない世界の末路とも言える。

 

これに気づかされた時のショックは計り知れないものがあったけど、監督が描きたかった「時代が崩壊し、社会が崩壊し、日常が崩壊する」その過程が、他人に無関心な日本社会がコロナ復興後に迎える現実と全くリンクしそうな強い錯覚を覚えたのは、自分だけだろうか? 

 

 

House of Hummingbird04

 “止まり木”を失くしたもの

幸せな思春期を過ごすのは、結構難しい。

・・だけどそれも、心を通わせ合わない家庭で生まれ育つと、さして不自由には感じずに生きていけるものだったのだろうか・・・?

 

妹の生存を知ってから、衝動的に強い罪悪感に捉われ泣き崩れるウニの兄の姿には、近親憎悪にも似た食傷感が否めない。

そして暗い集合住宅の片隅で、或いは母の姿を見つける学校の帰り道で、返答のない母の名を呼び続けるウニの姿はあまりに残酷で、強烈な虚無感を抱かせてくる。

アドラーの心理学では、他人からの承認欲求を明確に否定しているけど、愛された記憶のない子供が人を愛する事は絶対に出来ない筈だ。

そんなウニが知見を広げる過程で出逢うヨンジは、唯一安らぐ事の出来た“止まり木”。

けれど、その僅かな細い枝さえも、人命軽視の経済成長の裏で犠牲となるのであれば、休む事なく飛び続ける“ハチドリ”のウニは、家父長制の意識が抜けない世の中で、個人の正義のみを叫んで生きる選択肢しか与えられないという・・・

 

相知満天下知心能幾人(あいしるはてんかにみつるも、こころをしるはよくいくにんならん) =「知っている人は何人もいるけれども、心から分かり合える人は沢山はいない」という禅語は、中国の宋代から伝わる人の世の憂い

これを、予期せぬその死の間際にウニに教え伝えるヨンジの胸に去来する想いは、いったい何だったのだろう?

 

そんな最後の疑念がどうしても払しょくできないでいる自分には、この自叙伝の物語が映画として伝えるべき拠り所の希望が、未だに見えてこないままでいる。。。

 

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