マリブのブログ

ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ

映画『存在のない子供たち』の私的な感想―現実のシリア難民が最期に零す笑顔―

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Capharnaum/2011(レバノン)/125分
監督/脚本:ナディーン・ラバキー
主演:ゼイン・アル・ラフィーア/ヨルダノス・シフェラウ、ボルワティフ・トレジャー・バンコレ

 シリア内戦下の難民の実態

大昔、女性に言われた台詞がある。

人は、誰かに愛されたいから、誰かを必死に愛するのよ

久しぶりの映画館で観たこの映画の間、そんな言葉が終始、頭の中を駆け巡った。

 

この作品はもう、エンターテインメントな映画の枠にはおさまりきらない。

ドキュメンタリーを遥かに超越した、中東の底辺で暮らす子供達の悲壮感が胸を抉る。

 

監督のナディーン・ラバキーは、レバノンのヘアサロンで束の間の喜びと憂いの狭間で健気に暮らす住民達にスポットを当てた映画『キャラメル』で、監督、脚本、主演の3役まで熟したバイタリティー溢れる女性。

この作品も、同監督の出身地であるレバノン、ベイルートを舞台にしているが、そこで生き抜くシリア内戦から逃れてやってきた難民の実情となるとちょっとわけが違う。

欧米諸国と共産圏国家との代理戦争の様相を呈してきたシリア内戦から逃れる難民の数は、2019年現在、560万人以上。

そのうちのおよそ100万人が亡命しているレバノンでは、実に人口の約4分の1が難民という超非常事態体制にある。

ライフラインや雇用の圧迫から、人権自体を保障されていない彼らの生活実態は、正に極限状態。

そんな彼らの間に生まれた第二世代の子供達の姿は、生活苦の日本の貧困層の実態を暴いた是枝監督の『万引き家族』の子供達を遥かに凌駕するほどの、あまりにも現実離れした悲惨な光景を赤裸々に見せつけてくる。

 

 

 

 

あらすじ
わずか12歳で、裁判を起こしたゼイン。
訴えた相手は、自分の両親だ。
裁判長から、「何の罪で?」と聞かれたゼインは、まっすぐ前を見つめて「僕を産んだ罪」と答えた。
中東の貧民窟に生まれたゼインは、両親が出生届を出さなかったために、自分の誕生日も知らないし、法的には社会に存在すらしていない。
学校へ通うこともなく、兄妹たちと路上で物を売るなど、朝から晩まで両親に劣悪な労働を強いられていた。
唯一の支えだった大切な妹が11歳で強制結婚させられ、怒りと悲しみから家を飛び出したゼインを待っていたのは、さらに過酷な“現実”だった。
果たしてゼインの未来は―。
オフィシャルHPより引用

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 勝者の微笑み

自身の家を抵当に入れる程ひっ迫した製作費の中、監督がその映画の現地リサーチに3年間の月日を費やした事もあり、そのクオリティーは実に素晴らしい。

実名で登場する主人公の少年ゼインは、実際に10歳の頃から街のマーケットで働き家計を支えていた経緯もあり、その自立した顔つきを、ノーライトと彼と同じ目線で捉えるカメラアングルは、受け手に与える臨場感を倍増させる。

更に監督が、台詞を覚えられなかった彼にありのままのリアルさを求め、実際のストリートチルドレンを経験してきた彼の境遇からくる心の声をそのまま拾い集める為、2時間の尺の映画としては異例ともいえる、実に520時間にも及ぶ映像素材を6ヵ月間に渡り撮影するという離れ業を成し遂げたようだ。

この執念ともいえる作業のおかげで、映像上の台詞には一切の違和感がなく、そればかりか、出演者全員が演技経験がないとは到底思えない程の、血の通った生々しい声が胸に響いてくる。

 

母親が自分を産んだ事を訴えるというこの映画の究極の問いかけは、生ぬるい日本社会で育つ自分達には、いまいちピンとこない。

けれど、120分間笑顔一つ零さない少年の日常を目の当たりにしているうちに、内向的だが他の民族に比べ極めて共感性の高い日本人にとっても、その魂の叫び声はきっと届くはずだ。

 

しかしこの物語の根本的な解決策に、欧米のような勧善懲悪を求めると少し混乱する。

それは、劇中で育児に手が届かず少年の妹を手放そうとする母親にもまた、深い闇が立ち込めているからだ。

www.ganas.or.jp


日本でも“貧乏人の子沢山”なんて言葉もあるが、人権そのものが保証されずに日増しに不信感と不安だけが募り続けるシリア難民に、SEXさえも禁止するのはちょっと酷な話の様にも感じてしまう。

そんな彼らが身籠って生む娘達に、レイプや貧困から守る為、富裕層との早すぎる結婚を強いるのも、見方を変えれば、苦肉の策ではあるが親の愛情の一つとは言えないだろうか?

 

主人公の少年ゼインは、そんな行き場のない憤りの中、自分を慕っていた妹の早すぎる初産での死に直面する。

しかしここで問題なのは、娘を売り飛ばした母親でも、その無知な相手の婚約者でも、ましてやその男に刃を向けたゼインでさえもなく、彼らに真っ当な教育の場と出生証明書さえ与えられない国家の社会保障制度にある。

そうしてズームアウトしていくと次第に問題がボケてきてしまい、危うく内戦の絶えないシリアのアサド政権そのものの批判に繋がっていってしまいそうだが、結局は傍観者のままでいる事しか出来ない自分達にとって、この問題はただの対岸の火事に過ぎないのだろうか?

 

セメントの記憶』で記憶に新しい難民問題を抱える中東情勢の現状は、近年、映画化によってようやく少しずつ可視化され始めてきた。

更に東洋経済新聞の取材に対し、ナディーン・ラバキー監督は、

 

 “私は映画の力を信じていると同時に、大変な理想主義者でもある。たとえ映画が何かを変えることができないとしても、少なくとも、何かの話し合いのきっかけになったり、考えるきっかけになると確信している”

 東洋経済オンラインより抜粋

 

と答え、エンターテインメントな世界での現実の暴露によって、声を上げ続けている。

 

劇中のゼイン・アル・ラフィーアとその家族は、2019年現在、大使館とUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の協力によって、ノルウェーへの移住が正式に認められた様だが、つまり、この映画が製作された事自体によって、無視され続けていた人の命が一つ救われた。

 

・・何だか出口が見えなくなってきたので、ここで冒頭に話を戻すと・・・

 

鑑賞中、頭の隅にこびりついて離れなかった女性からの言葉は、ゼインの心象風景とピッタリ共鳴する。

他に希望がないとは言え、彼が自分の身を顧みずに幼い妹に最期まで愛情を注いでいた事や、赤の他人の赤ん坊を究極の選択を迫られるまで見捨てられなかった現実は、誰よりも自分が一番愛情を欲していたからなのだろう。

 

エンパスになってほしいとまでは言わないが、余裕なく個人主義に走る日本人はシンパシー(同情、相手と同じ気持になる)という概念があっても、エンパシー(相手と同じ気持になることは出来ないが理解はしようとする、しようとした上で相手に応える)を感じる機会が、昔より、大分少なくなっている気がしている。

けれど、結局その行動は、悲観論からくる自己否定に繋がっていってないだろうか?

そんな風に考えると、劇中のゼインの行動はすんなり納得のいくものだし、そればかりか、自分達の自己完結型の独りよがりな自己愛なんかを軽く一蹴さえしてくれ、ラストでようやくスクリーンいっぱいに広がる彼のはにかんだ笑顔からは、もがき苦しんだが故に、自らの手でしっかり安らぎと愛情を掴み取った勝者の微笑みが感じられた。

 

「存在のない子供たち」
2020年5月8日よりTSUTAYAでレンタル開始されます。

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