LOVE&POP/1998(日本)/112分
監督:廣野 秀明
出演:三輪 明日美、希良梨、工藤 浩乃、仲間 由紀恵、浅野 忠信
欠けた者達が集まる街
失敗から学べることは結構いろいろある。
ことわざでは“怪我の功名”、英語では“comes out smelling like a rose”なんてオシャレな例え方もあるようだけど、思えば自分の人生でもこんな事は日常茶飯事。
或いは、その時、死ぬほど後悔するような事でも、月日が経ってしまえば、意外にいい勉強になってきたような気もする。
この映画が公開された98年当時、日本はまさに時代の坩堝にあった。
バブルが崩壊し、高度経済成長期が終焉を迎えた中、それまでの夢物語がただの幻想であった事に気付いてしまったオトナ達は、開き直るように即物主義へと傾倒してゆく。
現代の若者たちが、夢を追う事に美学を感じなくなってしまったのも、そんな自分達の背中を見続けて育ってきたからだろう。
『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズや『シン・ゴジラ』で一躍有名になった監督・庵野秀明の初実写映画作品として発表されたこの映画は、そんな日本の虚構と現実を忠実かつ的確に非常に上手く捉えている。
ピッチ、援交、フェイクタトゥー、ネイル、伝言ダイヤルと、今でもその進化形態が僅かに淫靡な芳香を漂わせる平成文化が生まれたあの頃の渋谷は、気だるくもありながら、最高に居心地が良かった。
それは自分と同じ、欠けている者が集まってくる街だったから。。
そんな渋谷のど真ん中で、白昼堂々と5日間のゲリラ撮影によって撮影されたこの映画は、劇中に流れるジムノペディの優しい音色に自分達を包み込みながらも、未だ工事中だらけだったあの街の澱みを、再び思い起こさせてくる。
あらすじ
裕美は今時の女子高生。いわゆるコギャルだ。
夏休みを控えたある日、彼女は仲間の知佐、奈緒、千恵子と一緒に渋谷へ水着を買いに出かけた。
ところが、そこで見つけたトパーズの指輪が欲しくてたまらなくなった彼女は、他の3人の協力を得て、デパートの閉店時間までにその代金をエンコーでゲットすることになる。
Movie Walkerより抜粋
オトナと少女の距離感
今ではすっかり有名になった廣野監督は、この映画に取り組む際、心得ていた事があるようだ。
それは出演した女優達との縮まらない距離感を、敢えて保つ事。
撮影当時まだ無名だった仲間由紀恵の大胆なビキニ姿を始め、劇中の出演者は皆新鮮で素朴な中にも、粗削りな素人っぽさが伺える新人女優達。
この瑞々しさを、フィルム映画が廃れゆく全盛期にキネコ(ビデオカメラ映像をフィルムの画質に変換する作業)で見せようとなんてしてくるものだから、そのリアルさは圧倒的。
低予算ながらも数台のカメラを回し、合計200シーン前後にも及ぶ膨大な撮影量のロケを敢行したのも、色あせる事のない村上龍の原作の筆致を映像上に再現してみたかったのだろう。
彼が描く少女の性、或いはそこに猥雑に紛れ込んでくる大人達の様子は、いつの時代も全く変わらない。
そんな普遍的な歪みをリアルに撮影現場に残すことによって、まるで彼女達の日常を盗撮しているかのような背徳感がこの映画からは漂いまくる。
キーフェル、猿楽橋、ハットフィールド、ホテルG7と渋谷を代表するロケ地を転々と移動し、少女たちのスカートぎりぎりのトコロを足元から狙う数々のアオリ映像も、一見すると只のエロ動画の真似事の様だが、そこに十代の少女が迷い込む独特の危うさを共有できると、一気に劣情をそそる作品の異様な魅力に取り込まれてしまう。。
虚構の裏に潜む男の欲望(※以下、ネタバレあり)
話は一気にそれるが、最近、パパ活を始めているという彼女を持った20代前半の若者を、朝方まで慰めた事がある。
正直、そんな彼を憂うというよりは、心の何処かで少し微笑ましく思ってしまっていたのだけれど・・
しかし、今になって思い返すと、ちょっと後悔してしまっている自分もいる。
どうしてあの時、この映画を見る様に強くすすめなかったんだろう?
どうしてあの時、そんな男を激しく叱りつけられなかったんだろう?
なんて・・・。
作中に登場する主人公の裕美は、衝動的に足りない何かを物欲に変換しようとしている彼女達と何も変わらない。
劇中の祐美は「仲間と対等でいたかった」という思いで、援助的な施しではなく、自分自らの力でそれを掴み取ろうとするのだが、現代ではそのハードルは極めて低い。
トパーズどころか、少々値の張るブランド品だって男の寂しさを利用すれば簡単に手に入る様な世の中では、達成感さえ満足に感じる事はないだろう。
いや、もはや達成感を得る事自体が目的でさえもなく、本物の虚構の中に身を沈めようとしているのか・・・
けれどその虚構の裏には、必ず男たちの淫らな欲望が存在する。
そんなオトナの現実を、平田満を始めとする、吹越満、モロ師岡、手塚とおる、渡辺いっけい等の名バイプレイヤー達が見事に縁取りしてくれた事は言うまでもないが、やはり劇中の中で一際異彩を放っているのは浅野忠信演じるキャプテンEO。
一見真っ当な大人に見える彼が、出会い系やパパ活に進化した伝言ダイヤルで探しているのは、いわば獲物だ。
劇中に流れるナレーション通り、
「何かが足りないという個人的な思いは、その人を孤独にする」
事により、ビニールハウス栽培の手垢を知らない少女たちは、彼女達自身も気づかないうちにその純粋な心を搾取されていっていないだろうか?
そこで培われるのは、繰り返される孤独の恐怖か、人の愛憎を無視する鈍感力。
キャプテンEOの様に、愛情を受けられなかった母親への復讐なんて強い思いを胸の内に秘めた優しいオトナに出逢える事なんて、きっとそう簡単にないのだけど・・・
本当のエンディングシーン
メイキング映像にも残されているように、この映画は当初別のエンディング案があった。
というより、本編のエンドロールにかかる少女達の長回しのシーンは、どうやら急場を凌ぐ為に即席で撮影されたカットのようだ。
過酷を極めた撮影の最期に、透き通った海に囲まれた宮古島に飛んでのモンタージュ撮影なんて、ちょっと出来過ぎな爽快感丸出しに感じそうだが、大抵の裏方スタッフは一気に気が緩んでしまうもの。。
そこで太陽の日差しをめいいっぱいに浴びて海辺を走り回る少女達の様子なんて、いくら歪んだ現実から逃避した夢を見せるにしても、どうもチープなPV感が満載の様な気がしてきてしまう。
ここが、それまで女子高生の等身大目線を持つ出演者達との距離感を保った、監督の唯一の瑕疵でもあるのだけど・・
更に監督は、ここで全編ビデオ撮影をしてきた中での、敢えてフィルム撮影に変更。
しかし、体よく疲れきっていた撮影助手がそんなネガをを見事に三本ともダメにしてくれたおかげで、苦肉の策としてこの渋谷川を制服のまま闊歩する少女達のカットが出来上がった。
内情を知るスタッフからすれば苦笑いしか出来そうにないこのラストカットは、本当に付け焼き刃だったのだろうか?
結論からすれば、この映画はこの長回しほど魅力的なカットはない。
それは監督が思い描いていた幻想風景より、確実に少女達が躍動しているからだ。
原作を朗読する裕美のナレーションは、詩情を誘いながらも、どこか達観的。
そんなこの作品の本質は、思春期の少女特有の倦怠感にある。
しかし、そこに男目線を投影させた刹那的な解放感を与えてしまうと、それは余りに安易すぎるフェイクドキュメントのままだっただろう。
彼女達は一度失敗した事でも、もう一度手に入れようとする。
この健気さとパワーに満ち溢れていた瞬間が若さだった筈だ。
つまり当時まだヘドロ塗れのこのドブ川を平然と歩き続ける少女達の姿こそがリアルであり、虚像から立体的に彼女達が浮かび上がってくる瞬間でもある。
まるで水中カメラから捉えたプールに浮かぶ彼女自身の姿が、そのままトパーズのごとく輝き出すように・・
そこをきっちり35mmフィルムのビスタビジョンで捉え、翳りゆく映画の質感を対比法できっちり伝えてくれた製作陣の執念も見逃せないが、三輪明日美がちょっと外れたキーで歌い続ける「あの素晴しい愛をもう一度」の歌詞に、自分達の青春が見事に重なってしまい、心のポジにしっかり焼きついて離れなくなってしまった作品だった。
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