マリブのブログ

ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ

日テレドラマ『3年A組』最終話で菅田将暉が伝えたかった事。―本当の悪は個人ではなく想像力を失う事―

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 柊一颯からのメッセージ 

なんだかこの手のドラマは、無性にこっぱずかしい。

アラフォーにもなって、今更学園ミステリーなんてどれだけ中二病全開なのかなんて思われちゃうかもしれないけど・・

 

何をとち狂ってか、自分は大した夢もなく青春時代を海外で過ごしてしまった為、何時の頃からか、すっかり日本の高校生活に幻想を抱くようになってしまった。。

若い頃はそれでも十二分に青春を謳歌してきたつもりだったが、年を重ねていくごとにその現実逃避ぶりは激しくなっていく一方。。

 

そんな折『あゝ、荒野』での熱量のこもった演技が一際目立っていた菅田将暉が民放で初の単独主演ドラマを始めるなんて言うものだから、年甲斐もなく食らいついてみた。

 

初回を見終えた感想としては、『バトロワ』の焼き増しくらいにしか思えなかったのだが、回を追うごとにそのミステリー色は薄れ、青春ドラマの様相を呈していく。

やがて自殺した少女を追い詰めた黒幕の犯人捜しが大詰めを迎えた5話では、遂に視聴率が1ケタ台にまで転落し、このまま陳腐な謎解きのまま終わってしまうのかと思いきや・・

6話からはそんな中途半端なミステリー色を一気に拭い去り、まるで開き直ってみせる様な展開が功を奏したのか、それまで言いよどんでいたティーンのホンネをがっつり乗せた台詞が見え隠れするようになる。

そこに不器用なオトナの伝わりにくい愛情なんかも織り交ぜ、その弱い自分、更には警察では解決しようもないそれぞれの憤りを述懐し始めると、視聴率も少しずつ盛り返し始め、セミファイナルとなる9話では、12.9%という1月の新ドラマ枠の中では抜きん出た高視聴率をマーク。

この現象は、16年にTBS系で放送された『逃げ恥』と大分似た兆候の様で、今晩の最終話でも民放ドラマとしては久々の15%台を狙える異例のヒットドラマの様相を呈してきたが、そんなこのドラマの主人公・柊一颯が本当に伝えたかったコトとは、いったい何なんだろうか?

 

 

 

 

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 アンバランスなタイトルと歌声

思い返せばこのドラマは、当初からサブタイトルとエンディングテーマが絶妙なアンバランスさを醸し出していた。

-今から皆さんは、人質です-

なんてキャッチーなフレーズからはサスペンス色が丸出しだし、そうかと思えば、ラストに聴こえてくる歌声は、アラフォー世代の少年心をがっつり捉えた『はいすくーる落書』の頃と同じ甲本ヒロト

この時点でしっかり気付くべきだったが、このドラマは学園ミステリー風の骨太熱血教師ドラマだったわけだ。

 

しかし、情熱的な感情が全否定される今の世の中では、この手の類は流行らない。

 

そこで目をつけたのが、『相棒』シリーズによって安定の視聴率を叩きだすサスペンス色。

更に海外ドラマ『13の理由』等からヒントを得たのであろうSNSの恐怖なんかも融合させ、その浅はかな知識の中で発奮される若者たちの歪みを少しずつ暴いていく。

 

つまり、最低限の視聴者数を見込める保険を用意しながらも、そのふるいに残った最後の純粋な人達に、究極のココロを見つめ直す授業を説いてみせてくれたのだろう。

 

個人主義が拍車をかける現代で宗教感のない日本人が求めるドラマは、不景気の最中を生き抜く術を与えてくれる処世術ものが主流になりつつある。

更に時代が勧善懲悪化を推し進める一辺倒な思考回路の中で、視聴者はその漠然とした心の拠り所をいるはずのない弁護士や名医なんかに求めてはいるが、そんな蒙昧な世論に完全オリジナル版の脚本で真っ向から疑問を投げかけるドラマを始めるのは、それなりに勇気のいる決断だっただろう。

それでも本質を鋭く突くブッキー(柊一颯のあだ名)の台詞は、いちいち胸に突き刺さってくる。

 

 

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 ブッキーの突き刺さる名台詞

恥もかかずに強くなれると思うな!

なんてアドリブで声を荒げられるブッキーは、やっぱりカッコいい。

それは彼の台詞は学生達と等身大の目線で語れる実直さからくる言葉だが、何よりも菅田将暉自身のその才気あふれる健気さが違和感を払拭させている気がする。

上辺だけで物事を見るな、本質から目を背けるな

なんて直球の台詞も、大抵の俳優であればきっとサムく感じるだろう。

しかしそれが案外ストンと胸に落ちてくるのは、日本の短期ドラマの撮影では異例の役柄に沿った減量にまで挑戦してくれた彼の気迫と、自分達が忘れ去ってしまったあの頃の純粋な瞳がその内に未だ宿っているからだ。

 

劇中の魁皇高校に赴任してきたブッキーには、まず教育者らしい威厳がない。

それは初回でもしっかり描かれている様に、どこの学校、或いは社会にもいる尊敬も批判も受けない青年の姿そのもの。

しかし、彼の内に秘めた正義は全くブレる事がなく、傲りや怠慢を微塵にも感じさせず、直球で生徒たちに人生観を説いていく。

 

物語はあくまでも、揺れ動く高校生の学園生活と、その過程で黙殺され自殺した生徒の死因を究明していくのだが、ストーリーを追っていくとその裏にはズルくて弱い大人の影が見え隠れする。

そんな彼らの背中に自分達がリンクしてしまうと、若い彼らに希望を持たせられないのは、結局、妥協の末に相手のキモチをスルーする事に慣れてしまったオトナ達のせいなのかもしれない。。

 

つまり、このドラマが異例のヒット傾向にある要素には、未熟な生徒達へ生き方を説いているブッキーがきっちり自己犠牲を経て、自分達にはできなかったその純粋な思いやりを、一人でも多くの生徒に伝えていってくれている爽快感があるからなのだろう。

そして物語はいよいよ、自殺に追いやった犯人を暴きだすラストへと導かれていくのだが・・

 

 

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 卒業を迎える人達へのブッキーからの遺言 

結論から言うと、

ネット上で溢れる真犯人予想は、正直あまり意味をもたない。

それはこのドラマが、もはや学園ミステリーの枠からはだいぶ逸脱した世論へのアンチテーゼを秘めた社会派ドラマへとすり替わっていっているからだ。

 

流行りの高校生ダンスや、ミナミのアビスを始めとする半グレ集団をモチーフにしたサスペンス、更には巷の素人コメンテーターをこっそり揶揄した演出も、その視聴者層の間口を広げただけのアイデアに過ぎない。

某メディアサイトに掲載された映画化のニュースなんかも、まさしく劇中のブッキーが叫んでいた自分達がSNSを使う上での危険性を強く意識させる為の風説の流布だったと確信しているが、その上で彼の言葉をもう一度思い出してもらいたい。

 

自分達は未熟なアイデンティティーを確立させる為、匿名性というペルソナを被れば一見安全にその承認欲求をネット上で満たしてしまっている。

 

しかしそんなSNSの先には明らかに人の温度があり、その言葉の向こうで一喜一憂する自分と同じ弱い人間がいるという事を、どうか忘れないで欲しい。

 

ブッキーのキザな台詞を借りると、

悪意に塗れたナイフで、汚れなき弱者を傷つけないように

なんて歯の浮くような言葉に聞こえてしまうかもしれないが、これこそがネットリテラシーが低下したままの現代で、自分達がそろそろ気付かなければいけない一番の問題のような気がしてくる。

つまり、卒業を迎えるあらゆる人達のタイミングに合わせてきたこの彼の10日間の授業は、その視聴者がオトナに成長していく過程の最後に手向けるホームルームでもあり、自分達が知らずに傷つけているかもしれない誰かを想像してみる事でようやく完結を迎えられる、異色の視聴者参加型ドラマなんだろう。

 

『3年A組』は、最終話後の生徒達のリアルなアドリブでのホンネが聴ける彼らだけの卒業式のエピソードHulu(月額933円/無料期間=週間)で無料で観れます。

 

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